小原観音堂

熊本県菊池市旭志弁利字萩野(大規模林道沿い)

■宗不旱■明治17年(1884)5月14日生れ〜昭和17年(1942)5月末没。
熊本が生んだ歌壇の奇才、幼名耕一、後に耕一郎と改名、済々黌長崎鎮西学院熊本医学校に学ぶも中退して上京、
その後窪田空穂を知り短歌の道を志す。
後に朝鮮・中国・台湾を10年に渡り放浪、台湾での硯との出逢いで硯工の道を開く。
晩年は持病に堪えながら放浪の旅を続け、昭和17年9月25日鞍岳山腹に発見された遺体が、後に宗不旱と判明する。

宗不旱(そうふかん)は明治17年5月14日熊本市は上通町に生まれ、まもなく祖父の住む鹿本町区民に預けられます。
熊本が生んだ最大の歌人であると言われている宗不旱の終焉(しゅうえん)の地が、この歌碑より1.3キロ下方にある事から、
故郷が見下ろせるこの地に歌碑(昭和53年建立)が建てられました。

実は、この地は不旱第三の歌碑であり、最初の歌碑は水前寺公園内(昭和23年建立)に
「ふる郷になほ身を寄する家ありて春辺を居れば鴬の鳴く」
という歌が建立され、

第二の歌碑は不旱の故郷鹿本町役場(現山鹿市鹿本支所)(昭和41年建立)に
「くちなしの実もて色塗るふるさとの来民の団扇春の日に干す」
と刻まれて建っております。

この他にも阿蘇市の的石お茶屋跡内、隼鷹(はやたか)天満宮(昭和63年建立)に
「隼鷹の 宮居の神は 薮なかの 石の破片にて おはしけるかも」

宗不旱終焉の年(昭和17年)、最後の宿泊地となる阿蘇市内牧の達磨旅館に宿泊時、この歌と杜甫の「相対如夢寐」という漢詩を書にして
この旅館を後にしました。その後旭志村(現 菊池市旭志)の鞍岳山中で消息を絶ち、9月25日に同山腹にて遺体が発見されました。
その不旱の絶筆である歌
「内之牧 朝やみ出でて 湯に通ふ 道のべに聞く 田蛙のこゑ」

の歌碑が内牧温泉の道智寺裏内牧黒川河畔文学碑公園(昭和61年建立)に建てられております。
山に居れば   遠方野辺のもえ草を     こころに留めて       高きより見る             不旱
■宗不旱歌碑■ 撮影:平成15年9月4日
熊本県菊池市旭志弁利字萩野(大規模林道沿い)
不旱の郷里、鹿本町を見下ろせるこの地に歌碑が
建てられています。(歌碑除幕式:昭和53年5月28日)

宗不旱終焉の地

歌碑の場所に建てられた終焉の地の案内碑


大規模林道から550m下りた場所にこの碑があります。

宗不旱終焉の地は歌碑の場所より大規模林道をさらに600m下り、案内碑より左折、そこから徒歩にて(悪路につき
車はスタックの可能性あり)550m下り、そこの案内碑からさらに150m進むと、少し開けた場所に終焉の地が見えてきます。

県内各地の宗不旱歌碑 
水前寺公園内の歌碑
「ふる郷になほ身を寄する家ありて
春辺を居れば鴬の鳴く」
山鹿市役所鹿本支所内の歌碑
「くちなしの実もて色塗るふるさとの
来民の団扇春の日に干す」
的石御茶屋跡、隼鷹天満宮内の歌碑
「隼鷹の 宮居の神は 薮なかの
 石の破片にて おはしけるかも」
道智寺裏、内牧黒川河畔公園内の歌碑
「内之牧 朝やみ出でて 湯に通ふ
 道のべに聞く 田蛙のこゑ」

旭志の名所旧跡・文化財へ戻る